3/25/2013

Don't be shy.

ネイティブの英語が少しずつ理解できるようになると、アメリカ人がどの程度舌先三寸なのかということが分かって面白い。

一つ前のポストでスピーチ中に聞きながら考えられるようになったと書いた。英語が素晴らしくプレゼンスキルも小学校の頃から学んでいるであろうアメリカ人達のスピーチにはそれまではただただすげぇなぁとしか思わなかった。でも今では質問が分からなかった時に横道にそれて論点ごまかしたり自分が理解していないことを上手く隠して言ってるなとか分かったりしてちょっと安心した。彼らは基本的にはconfidentであり、誤魔化しながらconfidentであるというのは日本で25年間育ってきた自分にとっては衝撃的なことだった。

今学期は各学生が数回発表しないといけない授業を受けているのだが、そこにサミュエルというアメリカ人がいる。彼は知識の量も豊富で議論をしていると勉強になることも多いのだが、何よりプレゼンが上手いことが羨ましい。内容がしっかりしていることもさることながら、よく通る声ではっきりと話し、常にオーディエンスを意識しながら説明する余裕が感じられる。彼の場合、舌先三寸というよりはわからないことははっきりわからないと言う。わからないのにconfidentな風貌と大きな声でわからないのに悪い印象を持たせない。これもまたアメリカ式のプレゼンスキルのひとつなのかなと思った。サミュエルがごまかしたりするところは見たこともないし、普段から話していても好青年ということが伝わってくる。


リアルで私のことを知っている人は私の声が小さいと感じているかもしれない。声が小さくなり始めたのは5,6年前からで、自分の態度が小さくなるとともに声も小さくなっていったように思う。日本にいた時は声が大きいということにあまり良いイメージを持ったことがない。元気が良いというイメージもあるかもしれないが、元気の良いからといって声があまりにも大きい人というのは別の要素があるんじゃないだろうか。日本は何かと狭く密集している国なので声が大きいことは騒音になりかねない。それなのに声のボリュームを下げられない人はデリカシーのない自分本位な人のように思えてしまう。自分が声量を気にするのは態度がでかいように見られるのが嫌だというのもあったし、何より自分に自信が持てなかった。世の中では学歴コンプレックスが高学歴をdisる事例が尽きないけど高校でも大学でも大して成績のよくなかった自分としては自信なんて全くなかった。本当になんで博士課程になんか居るんだろうか。そんなわけでどんどん小さくなる自信とともに声量はどんどん小さくなっていった。

東大の大学院でトラウマになった科学技術英語Bという授業がある。英語という言葉が入っているが実際にはプレゼンの授業であり、留学生の独壇場みたいな講義である。プレゼンを評価する人は内容よりも姿勢だの声量だのを重視する人で、人前で話すだけで緊張する自分には人前で発声練習・発音練習させられるというのはトラウマになるには十分だった。私は発表内容によって声量が変わったりする。大学院の頃は研究成果がクソ過ぎたせいで発表時の声量は小さくなる一方だった。大した成果も出ていないのに大きな声で自慢げに話す人にはイライラして議論でボッコボコにした。今ではどんな成果でも自信を持って語るのが大事だと思ってるけど。

サミュエルの声がでかいのに悪い印象をもたせずわからないこともはっきりわからないというのはアメリカで一番の衝撃だったかもしれない。好青年という彼のパーソナリティも大事だけど、これに気づいた時は自分の価値観が大きく変わった。東大社会基盤の英会話の先生にプレゼンの相談をしたことがある。「confidentになる必要はない。pretend to be confidentになれば良い。」彼はそう言っていたが、当時は心から理解することはできなかった。今ならどういうことなのか分かった気がする。まず声が大きいということは態度が大きいということではなく相手に物事をはっきり伝えるための技術であり、自分本位な行動ではないということ。関係ないことをベラベラ話して誤魔化すアメリカ人もいるが、それは文化的な違いであり受け入れられないならはっきりわからないと言えば良い。その時に自信無さげに言うよりももっと前向きな印象をもたせたほうが良い。

まずは声量を大きくするところから始めてみます。

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