7/16/2012

合理性よりも納得を優先する生き方

最近「人間って非合理的に生きてるなぁ」と思ったのでそこら辺の考えをまとめておく。

他人に対して「この人ってこうやったらもっと上手くいく筈なのに」とか、「ここは、こうした方がいいんじゃないかなぁ」と思うことは良くある。内容に関しては研究であったり、キャリアに対する考え方だったり、人間関係だったりと様々だ。自分にとっては「こんなこと、正解はわかりきっているのに」と、ある意味当然のようなことでもその人が特定の部分にこだわったりしていてやきもきすることもある。

何故このようなことが起こるのかについて考えてみた。理由は3つ思いついた。

1,その人が本当に正しいことをわかってない
その人が特定の部分に関する知識が乏しいのに対し、自分は圧倒的に詳しい場合はその人が「なんでこんな事してるんだ」と思ってしまうだろう。こういう場合は正解がたくさんある訳ではないので直にアドバイスをもらった方がいい。予想だにしなかった別解が存在するということは殆ど無いので。

例えば私はジャグリング(お手玉などの曲芸)を昔かなり練習していたことがある。ボールを様々なパターンで投げたり、できるだけ多くの数のボールを投げようとするときは、正確に投げられるよう、反復練習が必要になる。どんな練習法よりもまずは反復練習が有効な上達法なのに、初心者がいきなり難しい技に挑戦しようとしても、何の技もできるようにならない。その初心者は各動作をひとつひとつ反復練習することが何よりも近道であるということを知らないのだろう。そういう時には熟練者が初心者に練習法を教えた方がいいし、初心者もきちんと熟練者のアドバイスを聞いてその通りに練習した方が、自己流よりもずっと早く上達する。

2,価値観の違い
正解が多数存在する場合は、どの正解を選ぶかは個人の趣味・価値観によって変わってくる。それにより、他人のやり方が自分にとって理解できないという状況が発生する。

私は昔から色々なところで「海外の大学院で博士号を取りたい」と宣言していた。すると、「日本で博士号とっちゃえば良いのに」と言われることもあった。確かに日本で博士号を取ろうとすると短期間で済むし、面倒な出願プロセスも要らないし、卒業は海外ほど厳しくなかったりと様々なメリットがある。それらのメリットを重視するような価値観を持っている人は私に対して「日本に居たほうが良いのではないか」と言うのだと思う。ただし、私の価値観では留学で得られるメリットの方が日本に居ることのメリットよりも圧倒的に重要だったので、海外の大学院に出願し、今回留学することになった。

このように価値観の異なる人へのアドバイスは意味があるのだろうか。相手がどのような価値基準で生きているのかを考えずにアドバイスするのはどうなんだろう。他の選択肢を提示するという意味では必要かもしれない。「私はこう思いますけどね」と言うくらいなら良いかもしれない。ただ、「君の方法よりこっちの方が良いんじゃないかな」とか違う価値観の人に「こうした方が良い」と言ったとしても聞く耳を持たずに結局自分のやりたいことをやるんだろうなと想像してしまう。

3,周りから見たほうが合理的な判断が出来るパターン
特定の方法に対して個人的な好みや思い入れがあったりすると、その方向性に固執してしまうことがある。本人はものすごいこだわっているのに周囲から見ると「そんなことやらずに別の方法にすれば良いのに。なんでやらないんだろう。」と思ってしまうようなことがある。2の要素と若干被るけど2は正解が複数あるのに対して3は合理性から考えると選択肢は殆ど無い場合だと思う。

架空の設定として私の友人(日本の大学生)が「宇宙飛行士になりたい」からと、英語を勉強しているとする。彼は英語が完璧というわけではないのに「これからは中国が宇宙開発で伸びてくるから中国語を勉強しよう」としているとする。個人的には「え、まず英語を完璧にした方が良いんじゃないの?」とか「中国語よりロシア語の方がいいんじゃないの?現在の宇宙開発といえばアメリカかロシアなんだし」とか「中国語やる時間があったらもっと授業頑張ったほうがいいんじゃないの?」とか色々考えてしまう。宇宙飛行士になるのに中国語は必須ではない。でも中国語にその人はこだわり、周りは冷めた目で「もっと別のことをした方が有益ではないか」と思ってしまう。このように、周りからみれば非合理的に見えるようなこだわりを持つようなことは、それほど珍しいことではないと思う。

他人に対して「この人もっとうまいやり方があるんじゃないかなぁ」と思うということは、自分の行動も他人から見ると「もっと合理的な方法があるんじゃないの」と思われている可能性がある。そういう場合はどうしたらいいのだろうか。

昨年冬にアメリカの大学院に出願する際は、研究テーマを変えることに執着していた。そもそも自分が所属していた機械科で応用物理(ナノ領域)の研究をやることはバックグラウンドを学ばないで研究するようなものなのでもっと応用物理を専門にするような学科に入って研究したいと思っていた。そのため、出願先も機械工学科ではなく電気や材料といった学科だったが、そういった学科にはそれまで電気や材料を専門としてきた優秀な学生が出願してくるので、そういった人達と対抗するのは難しかった。今考えるとアメリカには機械工学科でもナノの分野で成果を出している研究室は数多くある。そういった研究室に出願すればもっと容易に合格できたのではないかという気もしなくもない。自分の修士までの研究テーマを変えずに海外でも同じようなテーマを扱うことはできたかもしれない。最終的には自分が本来やりたかったテーマを扱っている研究室に行けることになったので、結果論として言えば自分の意志を貫いて正解だったのかもしれない。今後どうなるかはわからないけど。

あの当時の自分を今の自分が客観的に見ていたら、「もっと無難な道もあるんじゃないの」と合理的なアドバイスをしていたかもしれない。ただ、昔の自分がそういったアドバイスを受けたとしても聞く耳を持っただろうか。結局のところ、自分が納得する生き方をしないと気が済まないのではないだろうか。もし無難な道を選択して、その方向に進んだとしても、モヤモヤとしたものがいつまでも残ったんじゃないだろうか。もし納得する道を選んで失敗したとしても、それは自分が納得した上で進んだ道なのだから後悔は妥協するより少ないのではないだろうか。

自分が納得できるかどうかは合理性よりも優先されるような気がする。一度その道を選んだら、後悔を残さないよう全力を尽くすしかない。ただ、周りの声に耳を傾けないのは良くないと思う。自分が失敗した時に、昔の他人のアドバイスを思い出すことがあれば、「嗚呼、あの人のあの時のアドバイスは正しかったんだなぁ」と反省することができる。そうしたらその人にまた頭を下げてアドバイスを貰えば良いのではないだろうか。

あと一週間で渡米する。今自分が選んでいる道が最適かどうかは正直よくわからない。ただ、この道は自分が人生で大事にしているものを一番実現できそうな道であり、一番納得している道だ。あとはもう、全力でやるしかない。